大切なのは、自分のことを受け入れてくれる人
こんばんは、峠野です。
今回も結構真面目なトーンでお話ししようかなあと思います。
深刻な悩みとかではないけれど、140文字じゃ収まらない気持ちを吐き出します。
ん〜〜このブログも使いこなせてきたゾ☆
私は、高校までは地方に住み、大学進学を機に関東に進出してきた、田舎者です。今は一人暮らしをしています。
1人が大好きなので、一人暮らしはとても性に合ってると思います。何をするにも縛られないし、誰にも迷惑をかけない。
一人暮らしはとても快適です。
が、そんな孤独を愛する私でも、時折死ぬほどさみしくなる時があります。
「誰かといたい」
「誰かと話したい」
きっと、長く一人暮らしをしている人の大半が、この漠然とした寂寥感を一度は味わったことがあるのではないでしょうか。
私はその「誰か」が、具体的なことはほとんどありません。親でも、友人でも、ましてや恋人(そもそもいないしね!)でもなく、誰でもない「誰か」に無性に隣にいて欲しいと思うのです。
きっとこの先も、一人暮らしをしていく中でこのなんとも言えない寂しさを幾度も味わうこととなるのでしょう。
だからと言って、実家に戻る、誰かと一緒に住む…という選択をするわけでもありませんが。
こういう類の孤独感から抜け出すために、我々人間は他人と触れ合うのだと、私は思います。
昔、いわば厨二病全盛期の私は考えていました、「人は1人でも生きていける」と。
そんなことはありませんでした。人は一人では生きていけません。
誰かに、必要とされて、必要として、助けて、助けられて…そういった関係性があるからこそ、人間は生きていけるのです。
それを理解することができたのは、大学生になってからだったような気がします。
一人は好きだし、できることなら一人の時間を大切にしたいけど、ずっと一人じゃ生きていけないんだな、と、当たり前のことかもしれないけど、理解した時の私は衝撃を受けました。
だから私は、帰省もするし、友人とも会ったりします。
みんなもそうです。そうでしょ?そうだと言ってくれ。
少し話は変わりますが、現在大学生の私にも、赤ん坊の時代、小学生、中学生、高校生の頃がありました。
みんなもそうですね。誰もが皆、過去を積み重ねながら現在を生きている。
あなたがこの一文を読んでいるとき、私がこの一文を打っているとき、前文を読んでいたあなた、打っていた私は、すでに「過去の」あなたと私になっています。
過去の私たちは、現在この瞬間も、目まぐるしく生まれ続けているのです。
小学生、中学生、高校生、それぞれの時代に仲の良かった友人と話すと、忘れてしまっていた記憶でさえ蘇ることもあり、まるでタイムスリップをしたような感覚に陥ることがあります。
「あの頃」の私って、ちゃんと存在していたんだ…
そう、確かに実感することができる。
自分ではない、誰かからの話を聞くことで、過去の自分の存在の信憑性が増すのです。
私たちはその感覚が妙に心地よくて、いつまでも思い出話に浸ってしまう。
でも、「過去の自分」はもうどこにもいないのです。
「過去の私」「過去の友人」「過去の出来事」…「過去」について話しているのは、紛れもなく「現在の私たち」なのです。
あの頃の感覚や記憶が鮮明に蘇ってきたとしても、それを享受しているのは紛れもなく、「現在の自分」です。
制服を着ていた私は、もう、死んだのです。
あの頃、私は確かに友人と楽しく過ごしていた。
あの頃、私は確かに好きな人がいた。
あの頃、私は確かに苦しい思いもした。
でも、それは全て過去の私の経験であり、現在の私のモノではありません。
目まぐるしく生まれ続ける過去の私は、それと同時に死んでもいるのです。
過去にいつまでも、とらわれていてはいけない。
現在の私が見ていいのは、過去ではなく、現在そして未来のみです。
現在の私が介入できるのは、現在のみです。過去なんて振り返ってる場合じゃない。
死んだ自分に、いつまで執着するつもり?
…………そう、頭では理解しています。
でも私は、理屈的、理論的な人間とは程遠く、感情に振り回される女ですから、いつまでも死んだ過去の私に呪縛されています。
死んだ私を、棺桶に詰めることもできず。
死んだ私を、供養することもできず。
いわば死体遺棄です。
私の周りには、私の死体がいくつも転がっているのです。
現在の私より未来を見据えていたかもしれない「あの頃」の私の死体たちが、私の周りには無造作に積み上げられています。
「現在」を生きる私は、普段その死体を忘れて生きています。クローゼットの中に詰め込んで、鍵をして。記憶から綺麗さっぱり消去します。
しかし、そのクローゼットの鍵である、「あの頃」の友人と出会うと、いとも容易くクローゼットは開いてしまう。
そして、「現在の」私が見て見ぬ振りをしようとした、大量の私の尸を目にするのです。
決して、戻りたいわけじゃないんです。
決して、やり直したいわけじゃないんです。
でも、どうしてか、「過去の」私を供養してあげられないのです。
死体に向かって、「ごめんね、ごめんね」と、謝ることしかできないのです。
それはおそらく、私が私を肯定していないからだと思います。
22年間、私は心から自分を肯定してあげたことがただの一度もありません。
口では「私ってすごくない?」みたいなことをほざいたことは腐るほどありますが、所詮ネタです。
ここまで生きてきた自分はすごいとは思います。何度も死にたいと思ったし、人を殺めたいと思ったこともなかったわけでもないのに、それなりに真っ当に生きてこれたことは素直に褒めたい。
でも、それは私だけじゃない。今生きている殆どの人間が、それに当てはまる。
じゃあ私には、一体何がある?
…………何もないのです。
自問自答しても、私が誇れるものって何も出てこないのです。
面白さ、明るさ、私が日頃取り柄だと思っているものも、私の弱い、ウジウジした部分には到底太刀打ちできません。
「過去の」自分を供養できた瞬間が、人が成長する瞬間なのだと思います。
きちんと向き合って肯定して、供養したぶんだけ、人は大人になれる。
でも私の周りには散らばる、「過去の」私、私、私。
自分に自信を持てず、自分で自分を肯定出来ず。
そのぶん私は、過去の私を見殺しにする。
そのぶん私は、成長するきっかけを逃す。
足元に転がっている死体の数だけ、私は私を踏みにじった。
そうして生きているのが、「現在の」私。
私は、「あの頃」から何も成長していないのです。
皆がどれだけ前を見ていても、未来を生きようとしていても、私だけ、置いていかれている気がしてたまらない。
制服を着た私が、私の足元から睨みつけている気がするのです。
「私が夢見た未来は、お前なんかじゃない」
だから私は、「過去」を振り返った時に罪悪感に襲われるのでしょう。
無数に散らばる私の死体に、ただひたすらに謝るのでしょう。
「肯定してあげられなくてごめんね」
「こんな私でごめんね」
謝る時ですら、私は私を否定してしまう。
しかし、友人と会うことの意義は、「クローゼットを開け、死体を思い出すこと」ではありません。というか、これが意義だったらお前の性格どんだけ捻くれてんだって話です。
友人は、私の存在を肯定してくれます。
「過去の」私、即ち死んだ私の存在を認めてくれるのが、友人たちなのです。
死体と向き合い、供養するチャンスを与えてくれるのです。
楽しかった思い出も、滅茶苦茶辛かった思い出も。それを経験した「過去の」私ごと、全てまとめて「現在の」私と向き合わせてくれる。
それが、友人なのです。
「過去の」自分は死んでも、「過去の」人間関係は死にません。それどころか、現在や未来を
生きるために、「過去の」人間関係が非常に重要になる時があります。
だからこそ、学生時代の友人は大切にしていきたい。
特に、中学・高校・大学と、多感な時期を共に過ごし、私の思い出を作ってくれたみんなは、私にとって宝物です。
私は一人だと自己を肯定することすらままなりません。恐らく真っ先に死を選ぶような物凄く弱い人間です。
でも、みんながいて、みんなが私の存在を受け入れてくれるおかげでここまで生きてこられました。
別に、何かをしてあげる・してもらうのが友人関係の全てではない。
ただ心の片隅で、相手の存在を認識してくれるだけでもいいのです。
だからどうか、私の存在を、私が死ぬまでは忘れないでいて欲しい。
…………というのを、友人に託すのは重たい気がします。
こんなことを頼んでしまっていいのだろうか、と、ふと不安になってしまいます。
だからこそ、彼氏が欲しいと思いました。
「峠野はどんな人がいいの?」
よく聞かれる質問です。
聖川真斗とか吉沢亮みたいな人…………というのはさておき、私にはこれと言った理想がありません。
強いていうならば、「暴力を振るわない人」「傲慢じゃない人」「男尊女卑思考のない人」とか、最低野郎じゃなればいいなって感じで。
しかし、ひとつだけ、
「私を受け入れてくれる人」
という望みがあります。
正直いえば、私を肯定してくれるなら(血縁者以外の)誰でもいいです。
彼氏じゃなくてもいいです。
私にとっても、相手にとっても、お互いが一番大切な存在…
そんな人がいて欲しい。
2018年は、そんな人に出会えますように。
あるいは、出会うきっかけができますように。
今年も、自己肯定感を高められるように精進いたします。
ひとりでも多くの私を供養できますように。
最後になりましたが、明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくね。