なんの足しにもならない

140文字じゃ収まりきらない

拝啓 だれも知らないあなたへ1

こんにちは、峠野です。

 

 

(過激な発言が増えつつあるので、なんとな〜〜くTwitterに鍵をかけましたが、気まぐれに外したりつけたりすると思います。)

 

 

 

今回は(今回も)Twitterにつらつら書きたいけどTLを埋めるのがちょっと………ということでこのブログを書きます。相変わらずの自分語りです。

1、としたのは多分この「あ〜〜滅茶苦茶言語化してぇ〜〜けど、自分の中で処理しきれねぇ〜〜そうだ、ブログ書こう。」という気持ちになることはこの一回に限らない、と思ったので、とりあえずつけておきました。シリーズ化したらごめん。自己顕示欲が滅茶苦茶に高いので、人に見えるところに書きたがるわけです。ハイ。

ということで。以下は、私の私による私のためのお話です。ここでリタイアする人、いい夢見てね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

感情がこの短期間に滅茶苦茶に揺れ動いた。

私は、かなり激しい感情のジェットコースターに乗っていた。

 

 

 

 

 

 

 

私は、滅茶苦茶にプライドが高い。それは重々承知しているし、それが原因で人と衝突しないよう迷惑をかけないよう、人前ではその様を見せない努力を必死にしているつもりだ。

私が日頃馬鹿みたいな言動をするのは、勿論「人に笑ってもらうことにとてつもない快感を抱く」ことが根底にある上、元々そういう性格だからというのはあるが、「プライドの高い奴という印象を抱かせたくない」というのも、大きな理由としてある。

 

 

プライドを隠したいという、これまたくだらないプライドがあるのだ。そんな感じで、幾重にも重なり、手のつけられないほど肥大化した私のプライドは、もはやプライド界のミルフィーユ。その名に恥じることなく、少し衝撃を与えただけでいとも簡単に崩れる。どうしようもない。

 

 

 

プライドの高さに見合うのなら、まだいいと私は思う。

大谷翔平選手が「自分のプレーを馬鹿にする奴は許せませんね」みたいなことを言うと、「そりゃそうだ」、と彼の気持ちに同意せざるを得ない。だって実際に素晴らしい実績を残しているからね。

でも、そこらへんの少年野球チームに所属する補欠の選手が同じことを言っても、「そりゃそうだ」と、今度は周りの気持ちに同意することになる。ミスを連発してりゃ、馬鹿にされても仕方がない。

 

 

 

今だから言うけれど、私は中学では成績上位、高校、大学はそれなりのところに行った。

高校、大学で知り合った人間は、殆どがプライドの高い人物だった。嫌な意味ではなく、自分に適度に自信がある、所謂「自分」を持った人ばかりだった。

プライドとは、ある程度のレベルまではその人の優秀度(≠頭の良さ)に比例するのだと私は思う。

優秀だとされる人間は、周りから褒め讃えられたり、自分が上にいるということを他人から評価される。優秀とは己自身のみで決められることではない。誰かに認められて、比較されて初めて優秀な人間になる。成績優秀者が、順位付けで決まるように。

だから、優秀であればあるほど、自分を認めてくれる回数が増える。自分は他より優れている人間なのだ、と考える回数が増える。回数に限らず、その度合いも高くなるだろう。その結果、自尊心が育つ。

だから、優秀な人間のプライドが高いというのは、至極当然のことなのだ。

 

 

しかし、「ある程度のレベル」を超越してもプライドの成長が止まらない人間も中にはいる。実力に見合わない自己評価をする人間が。

 

 

それが私なのだ。

 

 

 

私もきっと中学くらいまでは、実力に見合ったプライドを持っていた。

でもいつからか、その成長は暴走を始め、私自身でも止められないほどのものになってしまった。そして皮肉なことに、その暴走を始めた頃から、自己肯定感の低下も始まっていった。

 

 

 

その結果、高すぎるプライドと低すぎる自己肯定感を併せ持つという、どうにも生きにくい性格の女が出来上がってしまった。自尊心と自己肯定感がお互いを攻め合う。私は自分の手で自分の首を絞めているのだ。

 

でもここまでくるとプライドも捨てられなくて。私に深く絡みついたそれを捨てることは、私の死を意味するのと同じ。

プライドがない私など私ではない。

 

 

 

こう書くと、本当に馬鹿みたいだ。

自分でも分かってる。

 

 

 

 

今まで散々自分で自分を卑下はしてきたけど、他人から馬鹿にされたことはそうない(影で言っているのは知らない)。

外見も、内面も、正直馬鹿にしていいのは私と、強いて言えば私が認めた人間だけだ。私の認めていない人間から馬鹿にされたり下に見られることだけは、私が絶対にされたくないことなのだ。

 

それが今、社会人になり研修期間の今、早速起こっている。きっと同期は、私のことをできない人間だと思っている。それが何となく察せてしまう。

そんなの、私のプライドが許すはずがない。今までできない奴と思われたことがないこの私が、まだ知り合って日の浅い奴らから下に見られているだと?ふざけるのも大概にしろと、相手に矛先が向く……………わけではない。

そう、ここで自己肯定感の低さが出てくる。自分に対する自信がとことん下がることにより、自分に矛先が向けられる。

なぜ私はこんなに無能な人間なのか?悔しい悔しい悔しい!私はもっとできるはずなのに。私はこんなところで終わる人間じゃない。

私は、私は、私は!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は、、、本当は無能な人間なのか。

 

 

 

低い自己肯定感が勝利すると、プライドもズタズタの上の自己否定。精神はズタボロとなる。

 

 

しかし、ここでズタズタになりつつもプライドがなんとか敗北を防げば、「お前ら、いつか殺す」と矛先がくるりと相手に向けられ、そしてそれは原動力となる。

 

 

 

 

 

これはギャンブル。

一か八かで、私の生と死が決まる。

 

 

 

 

 

 

また、私が絶対にされたくないことの一つに、「自分の居場所を奪われる」ということがある。

 

私はそんなに友達がいるわけでもない。まして恋人もいない。私が所属する場所は、そう多くはないが、それでも確かにいくつか存在していて。その場所は、どれもかけがえのない場所で。

 

私の中で、「私の居場所」とは「私しかいられない場所」と同義である。

私以外の誰もその場所にはいられない。

私だけの特等席。

特等席があるということは、私が必要とされている、認められているということ。

私はそれによって、自分の生きている意味を確認する。

 

 

 

しかし、その特等席に、ある日突然誰かが座ったらどうしようか。

一度ならいい。試しに座ったくらいなら、私だって鬼じゃないし、それくらいどうってことない。

 

でも、それが数回繰り返されて。

そのうち居座るようになったなら。

 

 

 

地獄の始まりである。

私のプライドはまたもやズタズタになる。

ミルフィーユなので、滅茶苦茶に脆いのだ。

私でなくてもいいのか。

私がいなくてもいいのか。

私なんていなくてもいいのか。

低い自己肯定感よ、そこまで仕事をしなくてもいい。たまには休んでハワイにでも行ってきな。

 

 

自分の特等席を奪われた場合は、プライドが勝利することはない。大抵、嫉妬心、絶望感、虚無感、孤独感…あらゆるマイナスの感情がぐるぐると渦巻いてそうして私を雁字搦めにする。

もはや抵抗する術すらない、ただ自己否定の海の中に沈められていくだけ。

 

 

 

 

 

この短期間にこの二つをほぼ同時に味わった私は、私を形成する全てを捨てようとした。

というより捨てるしか方法がないと思った。

私は一度、ここで死ぬのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でも結局私は死んでいない。

 

 

 

 

 

プライドが自己肯定感になんとか勝利したのだ。

私の特等席はまだそこにあったのだ。

 

 

 

 

 

 

私はまだ、生きられるのだ。

 

 

 

 

 

プライドと自己肯定感の仁義なき戦いは、間違いなくいずれまた開催される。

それがいつかは私にも分からないが、その時まではとりあえず、今を生きていきたいと思う。