「何も考えないこと」の罪の重さを噛み締めて
こんにちは、峠野です。
夏休みが明けて、本日から出勤する………
予定でした。本来ならば。
夏休み最終日、某室内アスレチックで最後の思い出づくりに勤しんだ結果、両掌を火傷するくらいの擦り傷をすることになりました。
いやいや、びっくりびっくり。
明日から仕事やだな〜〜行きたく無いな〜〜って気持ちが、こんな結果で叶うのは本当に勘弁してほしいものです。
と、今回の(自覚はあまり無いけれど)結構な大怪我により、また1つ自分の未熟さについて考え、噛み締め、反省する時がやってまいりました。
以下はつらつらと、あくまで自分用にまとめたお話です。※面白さは皆無です。
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現在24歳。
昔から、先生からはよく「しっかりしている」と評価され、三者面談の帰りで母親に「どこがしっかりしとるんだか」と疑われた。
でも私は、しっかりしているのだと、一人っ子なりにちゃんと考えて生きているのだと、先生の言葉を信じた。その自負があった。
だから、一人暮らしをしても私は一人できちんと生きていけるという自信があった。
今までもピンチは幾度とあったけど、何だかんだ自分の力で乗り越えてきた。
だって、「考えながら」生きているから。
私は一人でも、ちゃんと「考えて」生きられるのだ、と自分を信じてやまなかった。
…社会人になるまでは。
社会人になって、周りの人間の「考えている姿」を目の当たりにした。
考える過程、考えた結果、あらゆるものを突きつけられた。
そして時折、指摘された。
「何も考えてない」「もっと考えて」と。
分からない。
考えるってなんなんだろう。
だって、前述したように私は私の軸に沿って必死に考え抜いて生きてきたはずなのに。
なんで、今更になって「考えて」なんて言われなきゃならないのだろう。
正しくは、考えるベクトルがおかしかった。
私は、無意識ではあるが、周りの状況を優先して自身を後回しにするタイプだったらしい。
だから、自己保身に関しては人一倍にネジが緩んでいる。危機管理能力なんて皆無に等しい。
「私が我慢すればいいんだ」という気持ちで生きているから、自分が誰かの代わりに笑い者にされるのだって怖く無い。私がたとえAがいいと思ったとて、私が優先すべきと考えている誰かがBと言っているのなら、喜んでBと言う。
私の大切な誰かが喜んでくれるなら、私のことなんて後回しでいい。放置してくれて構わない。
大切な人のためだったなら、きっと命さえ惜しく無い。
小さい頃からの自己保身の末、こんな考え方が根本的に蔓延ってしまっている。
私にとってこれが第一優先事項なのだ。
そして、それを第一に考えることが、私にとっての「考える」であり、結果、自分の中で解決する事項については、「何も考えない」ということになる。
だって、私自身のことなら、誰にも関係のないことだから。
この事柄がどう転ぼうが、私が苦しもうが死のうが、誰にも迷惑をかけないならば、何も考えなくても別に問題はない。
私だけの問題だから。
きっと私は生粋のバカだ。
普通の賢い人間なら、自分自身の中でしか影響のないようなことでも、自分が楽になる方・嬉しい方を選ぶはずだ。
でも、私はそんなのどうでもいい。
大切な誰かに迷惑をかけない、大切な誰かに必要とされる、それだけが私の喜びだから。
それ以外は言ってしまえば興味はない。
多分この考えは、性格的な問題だから、マシにはなるかもしれないが完全に変わることはないだろう。
こんなことに、今まで気がつかなかった。
本当に私は生まれながらのバカなのだ。
自分の愚かさにさえ、気がつかなかったのだから。
ここまでなんとか生きてこられたのは、私が考えた末にリスクを避けてきたからではなかった。
ほとんどが運、あるいは周りの環境であった。
多分私は、本当にただ運が良かっただけなのだ。
考えなくてはならない。
この年齢になったからこそ、あらゆるリスクを回避できるように。
考えなくてはならない。
正しい自己保身ができるように。
何も考えないことこそ、他人に迷惑をかける結果となることに、ようやく気がついた。
だから私は、考えなくてはならない。
何が正しい考えなのか、まだ完全には理解できていないけれど、それも模索しながら、試行錯誤して、少しでも「何も考えていない」人間から抜け出せるように。
ああもう、人生って本当に難しい。考えるのを放棄したくなるのも仕方な……くないんだよな。賢い人間になるにはさ。