なんの足しにもならない

140文字じゃ収まりきらない

みつをとぽぽちゃんと私

 

こんにちは、峠野です。

おひさしぶりの更新です。

 

 

皆さんは1ヶ月半、どのように過ごしましたか?

卒業を控えた私の同級生たちは、卒論に追われたりしたのかな?

試験もあったのかな?よく分からないけど。

一息ついてバイトだったり旅行だったりもしたのかな?

とにかく皆様、お疲れ様でした。

 

私ですか?

ご存知の通り入院ライフですよ。

毎日毎日ベッドの上で寝転がってやんなっちゃいましたよ。

ある朝お医者さんと喧嘩して外に飛び出してやろうかな〜〜なんて思ったり全く思わなかったりしましたよ。

 

 

 

が。

ご存知の通りようやく!!!私は晴れて退院しました!!!

 

 

いや〜〜清々しいですね!!

自由を手に入れました。カヅキ先輩も高らかにFREEDOMを歌ってくれてます。

そうだよな、俺達が目指すのは勝者じゃなく勇者だよな。

 

 

 

 

さて前回のブログでは、「手術初体験記〜俺は人間だSP〜」をお送りしましたが、今回は術後回復して人間になった峠野の、その後を追っていこうかな、と。

まあTwitterで散々騒いでたんでね。「もう見た」「もう見た」連発でしょうから、心の広い人間だけ見てください。俺心狭いな〜って自覚のある人間は私と握手!

 

 

 

 

 

手術が終わって、喉の痛みもだいぶ緩和してきたということで、1月26日の金曜日から本命の治療に入りました。

「3日間点滴、4日間投薬」を3セット行う治療です。 

 

26日の午前の検温時、看護師さんが、「じゃあルート(点滴の管)さしますね〜」と、針とか色々まあおっかないブツたちを持って笑顔でやってきた。

間違いなく殺される、峠野ここに死す。ありがとうみんな、なかなかに最高の人生だったぜ、とか失礼極まりないことを思ったりした。

いやそんなのは冗談。そんな余裕なんてなかった。

 

 

私の血管は、か細くしかも深くに埋まっている上に曲がっている(らしい)。

私の女子力を全てこの腕の血管が吸収してしまっている。

私の腕を見て唸らなかった看護師や医者はいなかった。

 

 

…というまあ「厨二病ホイホイ」な設定を持っているお陰で、点滴やら採血の時間がアホみたいに長いわけです。

ここでね、一般的な腕を持っていれば普通にぷすりとさして終了するんですよ。

私は何度も言うが、注射の痛みに弱いわけではないから。

 

 

しかし、この血管探しの時間が問題で。

駆血帯を腕に締め付けられ、手をぎゅっと握らされ、腕を軽く抑えながら血管を探されるあの時間。

私は無駄なことを考えるんです。

「今から血を採られるんだなあ」

「血って赤色だなあ」

「針が刺されるんだなあ」

最初は相田みつをもびっくりするくらい当たり前のことを考えてるだけなんですけど、段々と一人マジカルバナナが開始されるというか、連想が連想を呼ぶというか。

「その時」はもっと鮮明な想像をしているのだが、ざっくり説明すると、「針が刺される感覚」や「血が流れている光景」をじっくり想像したりするわけです。ばかだもの。

 

そして「緊張感」の増す空気。

看護師さんも先生も、私の血管を探す時滅茶苦茶真剣になるんだよね。いや、当たり前だけどね。「血管なくね!!?ていうか最近流行ってるアレ知ってる?」みたいな軽いノリで血管探されても困るけどさ。知らねえわ、んなことより私の血管の場所を知れや!!ってなるけどさ。

だからと言って終始無言、たまに「んー…(不安)」という感じで腕を弄られ続けると、それはそれで滅茶苦茶に緊張する。

というよりその「んー…(不安)」ってなんだ?そんなに血管厄介か??不安を煽るな!!失敗フラグを立てるな!!!自信がなくても「ンー!!(自信と誇り)」って言って!!パッション屋良を見習って胸を張れ!!!そうだね、プロテインだね!!!

 

 

数分後、ようやくポイントを見つけた看護師が「じゃあチクっとしますね〜」と、一度目の針を刺した。

 

しかし、時すでに遅し。「人並み外れた想像力」と「無駄に煽られる緊張感」が魔のコラボレーションをかましてしまい、針を刺した瞬間、「あの感覚」がやってきた。

 

 

 

 

「あ、すみませ、ちょっ、気持ち、わる…………」

 

 

 

辛うじて出せる精一杯の日本語。

「エッ…(不安)」という看護師。ちーがーうーだーろー!!「ンー!!!(自信と誇り)」だって言っただろーーー!!!

 

 

正直、気絶する寸前と、直後が一番キツイんです。気持ち悪くて気怠くて、もうどうしようもなくて、ただ治まるのを待つしかなくて。動くのも、じっとするのもキツくてキツくて。

 

 

多分尋常じゃない顔色の悪さをしてたんでしょう、看護師も「ぬ!?抜きますね!?」と滅茶苦茶大きな声で確認してきた。ナイスパッション!!!!でもタイミングがちょっと違うよ!!!!もっと早くパッション!!!!と思いながらも、返事をする余裕は全くない。

 

 

 

──という流れを、なんと3セットのうち全てのセットで、しかもこの「医者と看護師を唸らせる血管」のせいで本来差しっぱなしのルートがいとも簡単にズレてしまったので、計6回経験した。

そのお陰でたかが点滴なのに「今日は…………点滴ですね…………(唾を飲み込む音)」と、今から手術でもすんの?刺すのは細い針だよね?メスじゃないよね?エッまさか槍????てな気分になる問いかけを看護師に毎回された。その件については、本当に厄介な患者で申し訳ないと思っています。

 

 

…………なんかもう気絶(寸前)の話ばかりで嫌になってきたと思うので、お話を変えたいと思います。というか本題はここじゃない。これが本題ならタイトルは「私の気絶、多すぎ…………!?」にする。

 

いや、我ながらずっと思ってるけど、このブログは寄り道が多い。蛇足しかない。もはや本題が存在しない。分岐点しかない。1つ話題が進む度に「1.それな」「2.そんなわけねえだろ」と選択肢を与えられ、そこで自分の意思を示さねば、流れでなんの足しにもならない文字の羅列を読まされる羽目になる。しかも行き着く先はだいたいDEAD END。なんのオチもない。GOOD ENDなんて存在しない。そうです、もう手遅れ…。このブログに入った時点でもうあなたは死ぬしかないわけです。私とともにね

 

 

 

 

 

 

──そうじゃなくて。

この世にいる人間皆生きてるじゃないですか。

で、そうやって生きてると毎日ってやがて作業的になってきて、「当たり前の日常」になるじゃないですか。

起きて、顔を洗って、ご飯を食べて。

学校や職場に向かって、授業を受けるなり仕事をこなすなりして。

帰宅して、テレビや動画をみて、本を読んで、お風呂に入って、就寝して。

たまに友人や同僚、先輩や上司、後輩や部下と飲みに行ったり、遊びに行ったり。

恋人や配偶者、家族みんなで遠くへ出かけたり。

 

ほとんどの人が、「今やっていること」「今できていること」を「日常的な作業」と捉えていると思うんです。

こんな偉そうに言ってテメーはどうなんだ?アァン!?と、おっかない人たちに言われる前に言明しておきますが、私だってそうです。

一つ一つの日常的な出来事に対して、いちいち「私が今これをできているのは、私がこういう状況だからだなあ みつを」なんて考えてたら、頭がオーバーヒートを起こして爆発します。はいまたもやDEAD END。人生はクソゲー(暴言)。こんなこといちいち考えていても、GOOD ENDに行きつけるのは相田みつをくらいです。みつを神を侮るなかれ。

ていうか、「働きたくないよぉ〜〜」「生きてるだけで時給発生しろよ」と常日頃考えている私の頭が、そんなに働き者なわけないでしょ。私の頭は週休7日。もはやニート。考えることを放棄しています。羨ましいこと山の如し。それなのに勝手に私の人生を制御してきますからね、何様なんだこいつは?なんの権限があるんだ??さてはコネ入社だろ???

 

 

 

ですが、そんなクソニートな私の頭も、たまに働きます。それは、「当たり前の日常」から排除された時。非日常を生きている時に、流石に私の頭も「やれやれ」とか言ってようやく思考回路を繋げます。貴様!!思考回路くらい常に繋げておけ!!!勝手にエコモードにしてんじゃねえ!!!!地球に優しいね!!!!!!すごい!!!!!!!!

 

 

 

ご存知の通り私は約1ヶ月、病院という名の牢獄に隔離されていました。私にとって、完全なる非日常です。

一日で喋った言葉が「おはようございます」「はい」「ありがとうございます」「大丈夫です」「お願いします」「おやすみなさい」だけという日々が続く。オイオイ、今のご時勢、Pepper君だってもっと饒舌だぞ?Pepper君、オススメ商品とか教えてくれるから。なんなら「あなたは何才ですね」とかいう会話もしてくれる。ジョークも言う。それに比べてお前の語彙力と対応力の低さ、おしゃべりぽぽちゃんじゃねえか

 

 

会話する相手もいないし、特にすることもないので、前回も言った通り、スマホかゲームと友達になるしかなかった。だからと言って、一日中することでもない。私ぽぽちゃん、女児だからすぐ飽きちゃう。

 

 

そうすると、私の頭が「やれやれ出番かな」と、ようやく繋げた思考回路に、「いつもお前が考えないように見て見ないふりしてることだぜ、どうだ嬉しいだろ?」と、ばかすかと日頃溜め込んでいるネガティブなあれこれを流しまくってくる。オメー歩く公害じゃねえか!迷惑極まりねえな!どうせなら常日頃から「どう生きるのが効率的か」とか有益なこと考えろや!流石ポンコツ峠野の頭だぜ、まったく笑っちまうよなァ!!!!(笑えません)

 

 

その結果、病を治すために病院にいるのに「死」について考えるという、皮肉な状況が完成する。恐怖の錬金術じゃねえか、真理の扉開いちまうぞォ!!!(開きません)

 

 

 

私の入院中の選択肢、

1.文明の利器と触れ合う

2.底なし沼で溺れ続ける

しかなかったんですよ。どっちもDEAD END。

 

1.なんて、SNSを開いた瞬間、日常を生きる人間たちの言動を目にするんですよ。そして己の人間力不足を実感し、やがてそれは他人への羨望、そして嫉妬へと変化する。「何で私が」とかどーしよーーーーもないことを考え始めちまうわけですよ!!!!「ハァ落ち込む…」とか言ってる奴がいたりしたらもう、終了。「テメー!!!!!んなことで落ち込んでんじゃねえ!!日常を生きていることに感謝しろ!!!そして生きろ!!!そなたは美しい!!!なんなら私と代わるかアァン!!??」と、長年鉄砲玉として生きてきた人格が、暴れ始めて自爆する。

 

 

 

でも、私も22年間伊達に生きてきたわけではありませんでした。誰に自慢できるでもない人生ですが、ただ唯一、その道中で出会った人たちだけは、自慢できる人たちだったというわけです。

 

 

 

決して交通の便がいいとは言えない場所にある病院だったのに、お見舞いに来てくれた友人がいました。

愛知からたまたま東京に来るとはいえ、雪のせいで日程を変えてまで来てくれた。

雨の中だったのに、花束を持って来てくれた。

私の旦那から預かったと、たくさんのお見舞い品を持って来てくれた。

親知らずを抜く手術後そのまま来てくれた。

一度ならず二度までも来てくれた。

病院にポストカードとエクササイズグッズを送ってくれた。

 

 

本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。

祖母が日頃から言っていることがあります。

「自分が大変な身になっている時に力になってくれる友人こそ、本当にあんたのことを思ってくれとる友人だよ」と。

その言葉を思い出し、皆が帰ったりした後、密かに泣いてました。ほんとだよ。

 

 

それだけでなく、TwitterやLINEでちょっとした言葉をかけてもらうのも、すごく嬉しかった。

 

本当にありがとうございました。

 

 

そして、今回一番感謝しているのは母親です。

母親は今、当たり前ですけど岐阜の実家に住んでいます。

それなのに、1週間に1度くらいの頻度で仕事終わりに横浜に来て、洗濯物や身の回りの必要なものの整理をしてくれて。

今回の入院費や治療費を払ってくれて。

ポンコツ頭が流して来るネガティブ情報のせいで凹んでる私の気を晴らしてくれて。

もちろんそれだけではないのだけれど。

 

 

 

 

前に実家に帰省した時、祖母や親戚が言いました。

 

 

「お母さんね、買い物するときも何をするときも、自分のことより峠野のこと考えてるんだよ」

 

 

 

私はどう反応すれば良いのか分からなかった。

「ありがとう」?母親に直接言われてるわけでもないのにありがとうはおかしい。「そうなんだ」?それはそれでなんか…

結局私は「へえ」としか言えなかった。お前はトリビアの泉か?つーか入院してもしてなくても、オメーはぽぽちゃんだな!ひっくり返すとなくなる不思議なミルクでも飲んでろ(飲めません)

 

 

祖母や親戚からそういったことを聞くたびに、ふと、一つの疑問を抱くようになりました。

 

 

 

母親は、自分の人生を生きているのだろうか?

 

 

 

 

でも、昔の私は蓋をしました。

そんな事実を見たくなかった。私は私の好きな人たちには幸せになってほしい。

母親にももちろん幸せになって欲しい。

でも、その幸せを邪魔しているのがもし私だとしたら?

私がいるせいで、母親がしたいことをできていないとしたら?

 

そんな事実に耐えられる自信がなかった。

 

だから私は封印しました。見て見ないふりをして。そんなわけない、なんて自分に言い聞かせて。

 

 

 

 

そして入院中、私の頭は例に漏れず、この問いを掘り出して来ました。ピンポイントで痛いところを突いて来るなお前は!流石性格が悪いと定評のある峠野の頭だぜフゥゥ!!

 

 

またこの頃、滅茶苦茶タイムリーすぎてびっくりしていたのだが、「あたしおかあさんだから」という歌がTwitter上で話題になっていた。

 

 【炎上中】あたしおかあさんだからの歌詞全文が気になる!感想まとめ。 | まとめまとめ

 

 

まあ母親の自己犠牲がテーマの歌でして、炎上ホイホイな歌ではあるんですが。

 

 

 

恐る恐る、母親に見せた。

「こんな歌が話題になっててさぁ…」と。

どうか賛同しないで欲しいと。

自分の人生を棒に振って、私の人生を優先しているだなんて思っていても、言わないで欲しいと。

 

今思えば、少し我儘かもしれん。でも、子供としては思いませんか??

「あんたがおるから私はこれができんのや」なんて、遠回しにでも言われたら、「じゃあ産むなや!!」とか言いたくなる。こっちは生まれて来たくて生まれて来たんじゃないわ!でも、今まで生きてこれたのは間違いなく親のおかげではあるしなうーーんみたいな、まあどうしようもない親子関係が絡みまくってぐちゃぐちゃになる。もうね、これはどうしようもない。親子で喧嘩すると一度は通るジレンマ。

 

 

母親は、例の歌詞を見て「恩着せがましいな」といった。

「母親として、子供にあれこれするのは当然だと私は思うし、それが自分の邪魔をしとるなんて一度も思ったことないけどね」

 

心臓に突き刺さった。ショックだったわけではない、むしろ「理想的」とされる答えではないか。それなのに、私はなぜこうも衝撃的だったのか。

 

 

それは、私の母親がいつもはそういった「自己犠牲」的な素振りを全く見せないから。

まさかそんなことを考えているとは思っていなかった。

どちらかというと、もっと適当に生きている人だと思っていた(最低)。

 

 

 

その時、母親の前では涙を見せなかったけれど、帰ってから馬鹿みたいに泣いた。なんで泣いたのか自分でもわからない。嬉しかったのか、申し訳ないと思ったのか。よくわからないけれど、涙が溢れて溢れて、頭が痛くなるくらいには泣いてしまった。

 

 

だが退院後、母親とこれからの生活について話をしていたら、自分が想像していた以上に私のことを考えていてくれたことが判明して、流石に耐えきれず母親の前で泣いてしまった。多分これは感謝と謝罪の涙だったと思う。

 

 

 

 

私は自分が一番大切な生き方をしてきた。

いや、多分それは誰しもがそうだとは思う(思わせてくれ)。自分が一番大切。自分が一番可愛い。自分が一番幸せになって欲しい。嫌な言い方をすれば、自分さえ良ければいい。

私の中に「他人」はいるようでいないと言えばいいのか、とにかく自己本位な生き方をしてきたと思う。

 

思えば、誰かを思って行動したことが私にはあったろうか?

誰かのために、誰かを喜ばせたいと、そう心から思ったことが、私にあったろうか?

 

 

ないんです。本当に私って、私だけで完結してしまっている。世界の見方が、子供の頃から変わっていない。マジで冗談抜きでぽぽちゃん。

 

 

私があって、そうして初めて他人がある。

そんな生き方をしてきた。

それなのに、こんな人間なのに、母親も友人も私を思ってくれていたことが感謝と同時に申し訳なかった。

 

 

だから、これからは恩返しをしようと思う。

偽善っぽい言い方が嫌いなので、あえて言いますが、これ以上自分を嫌いになりたくないんです。

このまま自分本位な、自己犠牲のじの字もない生き方をしていたら、ますます自分を受け入れられなくなる。

それを防ぐためにも、他人のことも考えた生き方がしたい。

勿論、こう考えるに至ったのは、周りの人達の優しさに触れ、すごく嬉しかったからなんですけど。

 

一人の時に、どうしようもなく不安な時に、誰かに差し伸べられた手はとても輝いて見えるんですよ。

すごくすごく嬉しくて、私もこの気持ちを他人に抱いて欲しいなって、冗談抜きで思った。

私が抱かせたいなって。まあここでも自己本位です。

 

でも、同じ自己本位でも、自分しか見えていない自己本位と、他人が見えている自己本位じゃ全然違う。

自己本位的に生きた結果、他人に喜んでもらえたらいいじゃないですか。自分も相手もハッピー。一石二鳥。win-win。サイコー。ピースフル。

 

そんな生き方をしていきたい。

 

 

 

 

クソニートの頭も、たまにはいい仕事をするもんですね。自分の生き方を反省すると同時に、今後の方針が見えてきました。

でもせめて、普段の生活でも思考回路くらい繋げておいてくれ。頼む。

 

 

以上、このブログを書いている途中でも号泣した峠野ぽぽちゃんでした。流石感受性と想像力を医者に褒められただけあるゥ〜!(褒められてはいません)